PS5が出てもこのままじゃゲーミングPCに勝てないと思う

ソニーが特許を出願したことで、PS5発売を期待する声が大きくなってきている。

gigazine.net

 

しかし、プレイステーションというシリーズは、そろそろ大幅な方向転換を迎えるべきタイミングに差し迫っているのではないかと個人的に思う。

 

もっと言うと、その方向転換をしないと食われて終わるのではないかとすら思う。

PS plusのフリープレイにて、PS3と共にPS vitaのタイトル配信が、後継機種発表すらないまま終了する現状(≒携帯機種撤退の可能性)を鑑みるに、これは強ち誇張表現ではない。

PSPの後継機種は、ケータイ電話のゲーム市場に負けるよ」と2006年くらいの自分に教えてあげても、多分全く信じなかったと思う。それくらい世の中のデバイス性能の底上げがここ10数年で起こった。

 

方向転換を迎えるべきと思う理由は2つ。

 

一つは、今挙げたようにPCやスマホがゲームプレイに必要な性能を圧倒的に上回ったこと。

2つ目は、ソフトメーカーとしての独自性の弱さ。

 

PCやスマホがゲームプレイに必要な性能を圧倒的に上回った


あえて名前を挙げるならPCゲームストアのSteamが便利過ぎて、「PS5不要なのでは」と個人的に感じている。

 

ゲーム機の役割というのは、
・娯楽方向に機能を特化させることで
・安価に広く
・コンピュータゲームを遊べる環境を提供する

この3つだと思う。


難しい言葉を使うなら、娯楽特化、機能特化、廉価性。
これだけはどれだけゲーミングPCが普及したとしても変わらないはずだ。

 

なぜなら、3万円でゲーム特化させたゲーム機と、3万円のPCの性能が同じわけないからである。
ゲームプレイ以外の機能を削ぎ落とすことで、10万円以上のPCの性能を限定的に引き出したコンピュータ。それがゲーム機だ。


しかし、考えてみれば当たり前のこの事実を、僕はこれまであまり意識したことはなかった。

 

なぜなら、そんなにスペックの高いPCや携帯端末を持っていなかったからだ。
「ゲームはゲーム機でやるもの」
「高いPCでゲームをやってる人がいるのは知ってるけど、それはオンラインゲーム」

この程度の認識だった。

 

だがここ5年くらいで状況は打って変わる。
持っているPCの、スマホの性能が、ゲーム機のそれと大差なくなってきたのだ。
「ケータイ(ガラケー)でポケモン金銀がエミュレート出来る」と聞いてかなり感激した2006年から、8年程度の話だ。

 

スマホでモンハン2ndGアプリが完全移植で出たとき、しばらく僕はそれをアイルー村的なミニゲーム集だと思っていた。
まさか自分の普段持ち歩いている端末が、PSP以上のスペックを持っているとは(知っていたが)考えたこともなかったからである。

 

欲しいソフトのためだけにPS4を買うか悩んだとき、自分の持っているPCでSteamから同じタイトルをダウンロードしてプレイ出来ると知った時にも同じ衝撃があった。


そして、一歩進んで今の考えに至る。
「PS5は、ゲーミングPCには勝てないんじゃないか?」と。

 

今回の特許の件にしてもそうだ。
下位互換程度で歓喜しているようじゃ、今のゲームプレイ環境を甘く見すぎだと言わざるを得ない。

なにせ、Steamじゃそんなの出来て当たり前だ。

PS3世代タイトルのベヨネッタと、PS4世代タイトルのニーアオートマタが同列に売られている。
誰も、そんなゲーム機の世代の差なんて意識しない。

 

そして何より、PS5のゲームが出たとしても、それらと同列に陳列されるのである。
「だったら5と言わずに、PS6くらいまでそのまま対応出来るくらいスペックの高いPCを買っとけば良くないか?」という向きに、今後大衆心理が動く可能性はかなりある。

 

いつでも手軽に保存媒体(HDD)を交換出来る。

セーブデータをクラウドに保存しいて、紛失を防げる。

プレイステーションシリーズも実装してきはいるが、これら便利な機能もゲーミングPCだって当たり前のように兼ね備えてる。

 

ではこうした現状で、後継機種でソニーが勝負していくためにはどうしたら良いんだろうか。

ここからはより持論の色が濃くなる。

 

私が考えるに活路は2つしかない。
1.携帯端末に特化する
2.自社で独自性の強いソフトを出して、それを自社端末で販売する

 

1.携帯端末に特化する

VITAの後継機種が出ないかもしれない現状で、何言ってるんだという感じかもしれないが、携帯ゲーム機端末市場は冷静に見てみるとかなりニッチだ。

その証拠に、GPD WINというシリーズがゲーム機型Windowsを出しているものの、ほぼ独占状態である。

なぜならケータイゲーム機は、スマホ3DS、PS VITAで十分だったからである。

これに対して「スマホゲームめ…」となるのは勿体無い話で、
寡占市場に参加してるんだから、ゲームハードウェア作りの与信を活かして、スマホゲーム市場のパイを取れば良いのでは。というのが1つ目の意見。

 

「それってXperia Playじゃないの?」という意見には、「そうです」とお答えせざるを得ないが、
仮に「ソニー3DSサイズのWindowsPCを出します!」ってなったら、無名の中国企業が出してるGPD WINなんて目ではない。
それくらい、「ゲーム機」としてのハードウェア作りに、ソニーは信頼を持っている。

 

それと補足するなら、モバイルゲーミング端末とスマートフォンOSは相性が悪いと思っている。(例:Xperia PlayとAndroid OS)

なぜならスマホゲームの殆どは、タッチパネル前提で作られているからである。
こうなると、物理コントローラは不要であったり、むしろ手間になってしまう。
(モンストやパズドラをコントローラでやりたいという人はほぼいない)

 

一方PCゲーム市場だと、殆どのゲームは物理キー前提で作られているから、モバイルゲーミング端末の強みをきちんと活かせるはずである。

 

2.自社で独自性の強いソフトを出して、それを自社端末で販売する

現状任天堂ソニーがSteamに比べて圧倒的に強いのは、囲っているゲームメーカーが多いという部分である。

これはゲーミングPCユーザーが、結局はSwitchやPS4を所有していることに繋がっているのではないかと思う。つまり、欲しいゲームソフトがSteamにないことがある。

 

だが、ゲームソフトメーカーも当たり前のように1メーカーなので、
「Steamでも出した方が売れる」というのが業界の常識になれば、PCゲーム市場での平行販売はここから更に加速するのは間違いない。

スマホでマリオとどうぶつの森ポケモンを出します」と聞いて、『ええ!?あの任天堂が!?』と思った時ほどの衝撃はないはずだ。

 

そうなった時に、最後の砦となるのが自社メーカーのソフトだ。

PCゲーム市場が圧倒的メーカーを抱えてきたとしても、「◯◯のソフトがやりたい!」があれば、自社のゲーム機も買ってもらうことが出来る。


スプラトゥーン2ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド大乱闘スマッシュブラザーズSP、スーパーマリオオデッセイ、マリオカートマリオパーティポケモン、今度出るどうぶつの森

ぱっと思いつくだけでも、任天堂はここが強い。

 

「自社のソフトを目的に、自社のハードを買ってもらう」

→「他社のソフトでも遊んでもらう」

という流れが出来ているから、Switchはかなり未来が明るいハードだと思う。

 

PS4もかなり売れてはいるが、端末としてもSwitchほどの独自性がない。

だからこのままではいずれユーザーが「あれ、これ俺のPCのスペックと大して変わらなくね…?」「欲しいソフトも、Steamにあるじゃん…」と思う未来が来る。

 

そうなった時に「いやいやこれはPS◯にしかないものだから」と、主張できる未来が来て欲しい。

 

そうしたらゲーム市場全体が、これからもいろいろな方向に向かって面白いものを作り続けてくれるはずだ。

執着と独占欲と

「新しい家族が出来ました。元気な男の子です。」

 

結局それは冗談だったんだけれど、

いつか本当に、そういう日が来る。

 

その時、自分は何を思うんだろう。

 

 

漫画私の少年を読んで、昔の感情が蘇ってくる。

 

今まで何人も人を好きになってきたけれど、

どの思い出も、今となっては色あせてしまったように思えた。

 

 

初体験のあの子を、思い出す。

 

当時は好きじゃなかった。

相手が好いてくれたことに甘えて、

付き合うこともなく

短い冬を過ごした。

 

 

今、あの頃よりも恋愛が上手くなって。

抱いた女性の数も増えた。

 

連絡一本入れるだけで喜んでくれる人もいる。

彼女もいる。

 

けど今でも、そうした女性の好意に甘えていて

去っていく瞬間が、一番寂しくて。

 

本当に狡いのはわかってるけど

自分だけを、いつまでも認めて欲しい。

そんなのは自分勝手の独占欲だなと、自分で思う。

 

人の気持ちは永遠ではないから。

その瞬間を、大事にしなくちゃいけない。

だけどなぜなんだろう。

今でも、失うことでしか気付けないのは。

 

 

素直に祝える大人でありたい。

けどこの執着心は、

どこまで行っても子供のままな気もする。

元旦からボケた祖父母とインスタントラーメンをすする悲しさ

「あんたは、なにちゃんだったっけか?」
 
孫である僕の顔を覗き込む祖母。
まさか自分がこんな、ドラマのワンシーンのような状況に遭遇することになろうとは…
驚愕、混乱、不安、そして、悲しみ。
本当に色々な感情を抱いた時、人はどんな表情も作れないのだと、23にして初めて知った。
 
年末年始、母方の実家に帰ったときのことである。
 
 
 
「けんちゃんだったかしら」
「・・・そうだよ」
引きつりながら笑って頷く。
 
なんだ、びっくりした。自分の年齢に乗っかった新手のネタか。
これは一本食わされた。はっはっは。
 
最初のやり取りはそんな感じだった。
これが本当にネタだったなら、どんなに心穏やかに新年を迎えられたことだろう。
 
おばあちゃんがボケた。
これまでとは違い、決定的に。
名前を聞いてきたことが、冗談ではなく本気の確認作業だったのだと僕が気付くのに時間はかからなかった。
 
 
最初に本当にボケていたのだと確信した時、今まで感じたどれとも違う絶望感が、舌の奥の方から全身に広がった気がした。
今までと同じ人が目の前にいるのに、自分の知っているその人は目の前にいないような違和感。
体裁はそのままに、じわじわと形骸化していく未来が見えてしまった残酷さ。
一気に失う絶望と、どちらがより深いだろうか。
 
 
祖母は今年84歳だ。
ボケたっておかしくない。
ダイアモンド婚。むしろ夫婦共々、ここまでよく元気でいてくれたと思う。
 
だが常識とか数字で考えるのは他人なら簡単だが、当事者は辛い。
 
別におばあちゃん子だったわけじゃない。
初孫という点でも、従兄弟たちの方が可愛がられていたような気がする。
それでもそれなりの思い出も思い入れもあるんだ。家族なんだから。
 
 
そんな大切な家族から、忘れられる。覚えてもらえない。
 
「みんな見上げるくらい大きくなっちゃったから、わからなくなっちゃって」
まるでおばあちゃんは僕らが十年ぶりに来たかのようなことをいう。
僕らがおばあちゃんの身長を超えたのは、ここ2、3年の話じゃない。去年だって来てる。
 
どうやらボケると、新しい記憶から順に消えていっているようだった。
その上、新しい記憶は書き加えられない。メモリがショートした回路。
 
 
おじいちゃんの会社に皇太子が来たのだと話していた。
お話出来て、これ以上のことはない、本望だと思ったと。
あまりにも鮮明に話すものだから先週の出来事かと思った。20年も前の話だった。
 
その一方で、みんなが今朝起きて、そして挨拶をして帰っていったことを全く覚えていなかった。
「まだ上に誰かいるのかしら」
そう聞かれる度に、他の孫達がきちんと挨拶をして帰っていったことを何度も説明した。
ひどい時には、その孫達が来たことすら忘れてしまっているようだった。
 
 
もしかしたら、と思う。
僕が今日ここに来て、戸惑いながらも家事を手伝って、他愛のない話をして、
いつもと少し違う正月を、いつもと同じように楽しもうとしたこの一日も、
明日になったら忘れてしまっているんじゃないだろうか。
 
だとしたら、この人にとって僕は今日ちゃんと一緒にいれているんだろうか。
ちゃんと一緒に、新年を迎えられたんだろうか。
 
 
「ごめんね、お粗末なもてなしも出来なくて…」
買い物を忘れたからと、夕食にインスタント麺とおせちの残りを用意していたおばあちゃんが僕に言う。
 
「ほんとはもっともてなしたかったんだけどね」
家事を手伝う度、ボケでささいな迷惑かかる度に、何度も聞いた謝罪の言葉。
ほんとうに悲しそうな顔をするおばあちゃん。
丸まった小さな背中。
きっとおせっかいなおばあちゃんは、自分が孫ももてなすことの出来ない正月がみじめだったのだと思う。
 
「それでもよかったんだよ」 僕はそう伝えたかった。
でも何度言葉にしても、おばあちゃんは忘れてしまって、届かない。
僕の中で謝罪の言葉だけが、淋しげに今もこだましている。
 
 
 
寂しかったことがある。
 
幼稚園に通っていた頃
駄々をこねた僕を自転車の後ろに乗せて、何件もはしごして、おまけ付きのお菓子を探してくれたこと。
もう一回お礼を言いたかったのだけれど、おばあちゃんは忘れてしまっていた。
 
 
嬉しかったことがある。
 
僕が受験勉強を頑張って、志望大学に合格したこと。
そのことをおばあちゃんはちゃんと覚えてくれていた。
何度も何度も褒めてくれた。誇りだと言ってくれた。
久しぶりに泣いた。
 
 
 
きっとどんな人だって、晩年は多くのモノは持っていないのだ。それは、思い出も含めて。
その時どんな物に、人に、思い出に、囲まれていたいだろうか。
僕はおばあちゃんのように、家族に囲まれていたいなと思った。
そして何度話しても色あせることのない思い出話を、これからもっと作って生きたい。
 
折を見てまた祖父母に会いに来ようと思う。
その結果多少悲しい気持ちになることがあったとしても、今の僕にしか出来ない恩返しもあるはずだと、そう信じて。

新しい音楽を、好きになるということ。(と、そのコツ。)

「人は33歳を迎えると新しい音楽に興味を持たなくなる」
という研究結果があるらしい。

 

周りの大人を見ていると、
たしかにそういう人が多いなと思う。

 

「最近の曲も、なんとなく知ってはいるんだけど、
 実際聴くのは昔カセットが擦り切れるくらい聴いた曲。」
そんな人が多いんじゃないだろうか。

 


ぼくは、そういう音楽の聴き方があってもいいと思う。

 

じぶんが見つけたお気に入りの一曲を、
宝物のように、生涯大切にし続ける。
そんな音楽との付き合い方だって、素敵だ。

 


でも。
それと同じくらい、
新しい音楽との出会いは素敵だな、と思う。
本当に、素晴らしいと思う。

 


問題は、
そうは思いつつも、
「自分から新しい音楽を遠ざけてしまっていることがある」
ということだ。

 


これは年齢に限った話じゃない。
ぼくは20代だけれど、そういう側面がある。

 

よく知りもしないくせに、
ほとんど一方的としか言いようが無い先入観で、
嫌煙する。耳を閉ざす。

 

例えば、
「ミーハーが聴いてそうだから嫌だ」
「みんなが勧めるから素直に認めたくない」
「名前が微妙」
「見た目が苦手」
こんな具合に。

 

意外とこういう人は多いんじゃないだろうか。

 


そして、もっと厄介なことに、
食生活や、人間関係や、仕事なんかでも、
同じような傾向があるんじゃないだろうか。

 

そんなくだらない思い込みで、
人生の味わいを減らしてしまっているのだとしたら、
本当に勿体無いなぁと、じぶんで思った。

 

 


今日、星野源というアーティストの曲を、
初めてちゃんと聴いた。

 

持っていたイメージは、さっき挙げたようなものだ。

 

仲の良い女の子が勧めてくれたのに、
そのことによって、返って聴くことから遠ざかっていた。

 


正直に言うと、
聴き始めてからも「やっぱ合わないな」と思っていた。
なんか歌詞が稚拙な感じがするし、
バンドマンっぽい声も好きじゃない。

 


だけど一曲、
「ん?これいいかも…?」っていう曲を見つけて、
それを繰り返し聴いていたら…

 

…好きになった。

 

なんだこれ。
いいじゃん、いいじゃん。星野源

 

こうなると、はやい。
声が、リズムが、音作りが馴染んで、
どんどん良いところが見えてくる。

 

ファルセットの綺麗さとか、
間の取り方とか、
Bメロからサビへの雰囲気の作り込みとか…。

 


たぶん、そんなものなんだと思う。

 


自分が苦手意識を持ってることとか、
きらいなものとか、
好きになれない人とかも、全部。

 

自分で勝手に先入観持って、
よく知らない、慣れていない、向き合ってない。
その状態で止まっていることがほとんどなんじゃないかな。
そう思った。

 


そんな時には、
アルバムから一曲でも気になる曲を見つけて、聴きこめばいい。
出来そうな分野から始めて、そこだけはマスターすればいい。
相手と共通の趣味や関心を見つけて、その話題だけ話せばいい。

 

そうして慣れることで初めて、
ほんとうの魅力が見えるようになる。

 

評価するのは、それからでも遅くないんじゃないか。

 


こうした作業は、エネルギーが沢山必要だ。
慣れていないものと接するのは、本当に疲れる。

 

でもその先に待っているものが、
素晴らしいからこそ、豊かだからこそ、
その分エネルギーが必要なのだと思いたい。

 


いくつになっても、それは忘れないようにしたい。

 


…もう一回聴こ。

現実よりも愛してる

ポケベルが鳴らなくて」という曲があります。

20年くらい前の、今ではAKBで有名な秋元康が作詞した曲です。

 

不倫をテーマにしたドラマの主題歌なのですが、

好きな人からの連絡を待っている時の気持ちや、その連絡の有無に振り回される様子、かといって自分からは連絡出来ないもどかしさなど、

連絡手段がポケペルからスマホへと進化した現代においても、人の気持は変わらないものだなぁと思います。

 

 

特にタイトルの「現実よりも愛してる」というフレーズは衝撃的で、それに加えて核心的です。

 

あくまで私見ですが、不倫をする人、叶わぬ恋を追い駆けたい人というのは、心のベクトルが相手に向いているようでいて、その実は自分の方だけを向いているという人が多いように見受けられます。

そういった人たちにとって大事なのは、「相手が誰か」ということではなく、「その相手を通じて自分がどういった状況に陥るか」なのではないかと思ったりもします。

 

そして、本人としても自分が思い描く理想としての相手と、実際の相手との間の齟齬に少なからず気付いてはいて、その上でなるべくそれに気付かないフリをしている。

 

それの行き着く先が「現実よりも愛してる」なのかなと思います。

ポケベルやラインでのやり取りでしたら、実際に会う場合よりも情報量が少ない分、理想に限りなく近い状態の相手とやり取りすることが出来ますからね。

おそらく片想いの原理も似たようなものでしょう。

 

 

しかしここまで極端ではなくとも、人というものが何かを好きになるというプロセスは、結局のところ、こういった「自分勝手な翻訳」を抜きにすることは出来ないのかもしれません。

好意好感を抱くのは対象自体にではなく、自分のレンズを通した上で自分のセンサーに感知された、加工された対象だと、言えなくもないですからね。

 

 

少し深く考え過ぎかもしれませんが、恐らくそう遠くはない解釈が、このシンプルなフレーズには込められているはずです。

作詞家としての秋元康の才覚を20年も昔の曲に見つけた気がしました。

ハタチ

2014/01/28
(ひとりごと)
形だけでもハタチらしいことしてみようと思って、コンビニで酒を買ってみる。
寒空の下、街灯に照らされながら、ひとくち。
 
不味い。
慣れてないから当たり前か。
‥今時二十歳までお酒飲まない奴なんか珍しいよなぁ と改めて思う。
 
今日二十歳になりました。
忘れてました。気付いたらなってました。
 
でもだからなんだっていうんだ。
もっと大切なことがある。そう思い直して、残りを全て捨てて帰る。
 
ゴールデンウイークも夏休みも秋休みもハロウィンも冬休みもクリスマスもお正月も成人式も誕生日も、
全部、今年は3月にまとめて来るって、決めてんだ。
 
祝えよお前ら。終わったら。
今年は少し違うぞ。

goalとゴール

 ぼくらには各々目標がある。

それは今週一週間のものかもしれないし、あるいは人生という長い道のりの途中に見定めたものかもしれない。

 目標を意味する英単語の中の一つにgoalがある。サッカーのゴールとかの、あのgoalだ。

ところが英単語のgoalつまりは目標と、僕らが思うところのゴールとは、よくよく見てみると別物のように感じる。

 サッカーにも、マラソンにもゴールはある。たしかにみんな、ゴールを目指して頑張ってプレイして、走っている。

でも点を取ることや、テープを切ることは、その試合そのレースの「目指す所」であって、優勝やベストタイム更新といった「目標」ではないはずだ。

 ゴールがある時には終わりがある。試合終了、レース完走。

けれどもgoal(目標)には、続きがある。県大会進出、生涯現役。

 

 かつて憧れていた目標を達成してからも、日々の生活は続いていく。目標は通過点でしかなかったのだと、今になって思う。